Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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2004.12.28完成
はじめに
本論は、「誰かの生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値するかどうか」、あるいは、「この私の生存が、何か別の生のあり方よりも一層生きるに値するかどうか」という価値軸に沿って、我々の社会が無際限に階層序列化していく可能性を論じる。それは、「汎優生主義(Pan-eugenics)」と呼ばれ得る新たな社会的過程である。
1.現代社会福祉の実践と「新優生主義(Neo-eugenics)」の遭遇
「優生主義」とは、国民全体の質を改善し向上させること、すなわち、「不良な子孫」を除去することによって、一定の人口集団の力を強化することを理念に掲げ、障害者、精神病者、難病患者、感染症の患者等を負の社会集団として選別の対象とする思想と実践である。1996年、母体保護法へと書き換えられる以前の優生保護法(1948年施行)は、ライ予防法と歩調を合わせながら、第1条「この法律の目的」を「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母体の生命健康を保護すること」としていた。刑法の堕胎罪は残存しており、少なくともこの時点までの優生保護法は、「不良な子孫」の選別・抹消のための堕胎(人工妊娠中絶)を例外として許認可する「優生政策」として機能してきた。(注1) この意味で、戦前戦後を通じて、一貫して日本は優生主義国家であった。
現在、生活習慣病に罹りやすい体質や攻撃性などの概念に関わる遺伝子に言及する、またはその原因遺伝子を特定したとする「科学的な言説」が目立つ。この点に関して、母体血清マーカーの遺伝子検査が、不特定多数を対象とするマススクリーニング方式に適合的なものとして注目される。この検査は、実質的に全国民を遺伝的リスクの確率分布に従ってスクリーニングの網に絡め取る装置として機能し得る。(注2) こうした現状において、上述の「新優生主義」の理念の実践は、要介護者の、さらには遺伝子解析に基づき認定された「ハイリスクグループ」の選別につながっていく可能性がある。
例えば終末期医療・介護の現場において、末期アルツハイマー型老年痴呆患者の場合など、本人が「自己決定」困難な、あるいはほとんど不可能な状況にある場合である。そうした状況が、家族を含む本人以外の者から無意味な延命状況と見なされてしまうことはないとは言い切れない。生活/生命の質を階層化しつつデータ化するQOLという評価尺度は、こうした状況を正当化する機能を果たしてしまう可能性を持っている。(注3) このような場合、これ以上尊厳無く無意味に生き続けても無駄であり、むしろ安楽に人間としての尊厳を保ちつつ死ねるようにすべきであるという「尊厳死」の理念が、介護される者を(むしろ死期を早める事態を是認するという意味での)「安楽死」へと強いる周囲からの社会的圧力になる。「不必要な延命措置」の排除を目指す理念の実践は、本人の意思に関わらず、介護される者の社会的存在を抹消してしまう可能性を持つ。この場合、「尊厳死」の理念の実践は、「不幸な延命状況の出現」を、「予防すべきであった事象」として構築する。
我々は、個人、カップルの選択(自己決定)による遺伝性疾患の診断、治療、予防を推進する思想と実践の総体を、あらためて「新優生主義(Neo-eugenics)」と再定義する。この「新優生主義」という潮流が、「汎優生主義」へと深化を遂げていくのである。
2.「汎優生主義」の展開――「ユビキタス社会」の登場とデータベースの実践
「ユビキタス(ubiquitous)」という言葉は、「偏在する/どこにでもある」の意味を持つラテン語に由来する。「ユビキタス社会」とは、日常生活のあらゆる場面で、「この私の生存が、何か別の生のあり方よりも一層生きるに値するかどうか」という問の答がすでに与えられているような世界である。以下に、そんな一見夢のような社会の実現に関わる事例を紹介する。
事例1:2003.9.03.朝日新聞
「日立製作所は2日、商品などにつける電子荷札「無線ICタグ」の小型化に成功した、と発表した。商品情報を記録するIC(集積回路)チップ上に、無線通信で情報を読みとるのに必要なアンテナを組み込んだ。紙幣と同じ程度の薄さで、埋め込みが可能になる。紙幣の新しい偽造防止策に活用できるとして、各国の中央銀行に採用を働きかけ、今後1年以内に製品化を目指す。開発したICタグは0.4ミリ角で、厚さは従来より薄い0.1ミリ(中略)紙幣のほか株券などの有価証券、パスポートなどへの利用を見込む(中略)日立の従来品では、ICチップ部分は0.4ミリ角で同じだったが、外付けのアンテナが長さ55ミリ、幅2ミリだった。大きいので、折り曲げて使う紙幣には使えず、紙の上に張りつけるか2枚の紙にはさむしかなかった」
事例2:第16回 朝日ヤングセッション 坂村健講演会「トロンの夢・ひとの夢」(主催/朝日新聞社 後援/文部科学省・東京都教育委員会 協賛/協和発酵)に関する広告記事(2003.11.15.朝日新聞)
「10月4日、昭和女子大学人見記念講堂で開催された朝日ヤングセッション。世界で一番たくさん使われている組み込みOSのトロン。その開発者である坂村健氏が推進する、どこにでもコンピュータがある環境「ユビキタス・コンピューティング」。あらゆるものに数ミリ角の大きさのコンピュータを付けてしまうことで、果てしなく広がる可能性についてお話になりました。もう始まっている未来社会の実感に、会場を埋め尽した約1000人の若者たちは想像力を膨らませていました(中略)たとえば小さなチップをクスリ瓶に付けて、人間の指にもコンピュータを付けておく。「私はこういうクスリを処方されていて、飲まなくてはいけない」ということをユビキタスに付けたコンピュータに入力しておけば、クスリを飲むたびにチェックしてくれて、クスリの投薬ミスを未然に防いでくれるシステムができるようになるわけです(中略)チップをシャツに付けておくこともできます。コンピュータがその人の日頃の体温をわかっていると、体温が上がってきたらたぶん暑いのだろうというのでエアコンの温度を下げてくれるということもできるわけです(中略)コンピュータを私たちが住んでいるこういう生活の空間の中に思いっきりたくさんばらまいて、モノというモノ全部に小さなコンピュータを付けて、今の世の中がどうなっているかを認識させる(中略)ユビキタス・コンピュータが重視するのはグローバリゼーションではなく、ローカリティです(中略)小さなコンピュータをたくさん作って、それぞれ機能を特化させた様々なモノをゆるやかに繋げることによって、大きな一台のコンピュータがやっていたよりももっと大きな仕事をするようなコンピュータシステムを作る。それが、「ユビキタス・コンピューティング」なのです」
この「ユビキタス・コンピューティング」の戦略的な実践事例として、新たなビジネスチャンスの創出という点からみて最も有望なものの一つと見なされているのが、一人一人の遺伝子情報の差異を抽出し、DNAチップ(DNAマイクロアレイ)すなわち「遺伝子チップ(ジーンチップ)」に定着するテクノロジーである。これにより、例えば個人がどのような遺伝的な疾患の素因をもっているかを明らかにして、生活習慣病等の発症確率としてデータベース化することが可能になる。現在、こうしたデータベース化の作業を、セレラ・ジェノミクスを始めとする多くの企業が行っている。この企業のトップのJ・クレイグ・ベンターは、セレラ社を設立する前は米国立保健研究所(NIH)付属「国立神経学疾患・脳卒中研究所」研究員、同退職後ヒューマン・ゲノムサイエンス社「ゲノム研究所」長という履歴を持っていた。ベンター等が熾烈な競争のもとで今やっていることは、よく知られた比喩で言えば、人間の共通の地図というものは分かった(ヒトゲノム解読完了)、ただ我々は、その意味をまだ読み取れないシェイクスピアの本、つまりどこにどのような文字が書かれているかが分かっただけで、実際どのようなことが書かれているのかまだよく分かっていない本の読み取り作業を行っているということになるのだが、次にこの読み取りの段階でそれぞれの遺伝子の機能を、例えばある特定の癌の発現機構等をすべて明らかにするという第二段階がある。その次に同時平行的に、一人ひとりの遺伝子にそれぞれの機能があるのかないのかを明らかにすることが目指されており、(注4) セレラ・ジェノミクス等が企業戦略としていることは、その情報を特許化して売るということである。つまり、個々人の特異的な遺伝形質に対応した「テーラーメイド治療」(注5)のために、インターネット上のデータベースにしておいて販売する(利潤につなげる)という戦略がすでに進行している。なお、「遺伝子チップ(ジーンチップ)」を基盤にしたデータベース化という論点に関連して、1998年10月23日の厚生省(当時)厚生科学審議会「先端医療技術評価部会出生前診断専門委員会議事録」(p.18-19,26.)における武部委員の以下の発言が参照できる。
「武部委員(略)母体血清マーカー検査と、画像診断、これは超音波のことを意識して
いますが、これらはつまりスクリーニング検査、スクリーニングという言葉はやめた方がよいという意見もありましたが、つまり不特定多数について行うものです。診断という場合には、ある疑いを持ったときに行うものという意味では共通性がある。しかし、先生がおっしゃるように画像診断の方がはるかに範囲が広いと言いますか、さっきおっしゃったように一般的なところがある。ですから、強いて言えば、この分類の中で更に母体血清マーカー検査、今はたまたま母体血清マーカー検査しかない訳ですがこれから出てくる可能性もありますし、私は正直言って遺伝子のジーンチップというのが開発されてきますと、血液1滴でもって遺伝子検査というものは不特定多数に出来る時代がもう来ていると思っております。(中略)ジーンチップは御存じだとは思いますが、血液1滴取って小さな半インチ四方のところにやると、今の段階で最大4万6,000の遺伝情報が分かるというのも開発されていますので、そういう時代が来ることを予測しないと、一々特定のことだけ言っておったのではちょっと時代についていけないという印象を持っています(中略)生命保険に遺伝情報が利用されるおそれというおそれは非常に高いと思っております。既に、家族性大腸ポリボースで生命保険の加入を断られた例が実際にあるということをある医師から聞いております。遺伝子診断の結果等を生命保険や健康保険は、利用することはアメリカでは完全に禁止する方向に行っておりますので、日本も私は是非そういう方向に行ってほしいと思っています」
このように、究極的には、我々の生存は、マイクロチップに定着され可視的なものとなった自分の遺伝子を自分の好きなように改造できるチャンスに直面することになる。そのとき、個々人の遺伝形質改造のニーズに対応した「オーダーメイド医療」が膨大な利潤をもたらす産業に成長する可能性がある。こうした流れにおいて、<汎優生主義>は、単に遺伝性疾患の可能性をあらかじめ予防すべき負の要因として構築するのみならず、さらに、より生存に値する存在に我々自身を「改造」する際限のない志向性を持つ<偏在的な無意識>として構築され機能する。
我々の現実におけるこのような流れと相関して、我々が自らの社会性をどのように獲得していくのかというテーマがあらためて浮上してくる。以下に、この「社会性の獲得」と「汎優生主義」の関係を論じる。
我々が社会性を獲得するということは、他者との出会いにおいて、自分が万能である、つまり、あらゆる可能性を実現し得る存在であるという幻想を決定的に断念することである。我々は、それ以外のあらゆる可能性を断念して選び取った一つの可能性の実現を目指して自己形成していくのである。現在、この意味での社会性の獲得が構造的に回避されている。このテーマを、データベース装置との関わりにおいて考察してみたい。  
データベース装置は、仮想的なゼロから無限大まで、我々の生存そのものを無際限の階層に選別し振り分ける(無際限に階層序列化する)という機能を持つ。ここで、「この私の生存が、何か別の生のあり方よりも一層生きるに値するかどうか」という問が切実さを持ったものとして浮上してきていることを示していた事例として、SMAPの「世界にひとつだけの花」という作品の流行がある。つまりこの作品の流行は、自分自身の今現在の生存より、実はもっと素晴らしい生存がいくらもある(あり得る)ことに傷ついている、きわめて多くの人々の心を癒す役割をタイムリーに果たしていた。SMAPという存在は、癒しを求める者たちのほとんどすべての層をカバーする形で、実際にそうした者たちの傷を癒してくれるカリスマとして受け取られたのであり、今現在もそうした存在であり続けている。(注6) ここには、自分自身を個として受容してもらいたい、というよりむしろ優れた存在として承認されたいという我々の切実な欲望が読み取れる。現実世界では叶えられないが、実は優れたものとして自分を受け取ってほしいという我々自身の欲望が、あの歌の出現を必然としたのである。
データベースのレベルでは、こうした承認への欲望は万能感につながってしまう。自己の有限性にとどまることができず、我々の生存のあらゆるレベルにおいて、いわゆる生活水準、IQ、EQ(感情偏差値?)、あらゆる能力を測定する試験の成績、どこに住んでいるか、(反)社会性等々、そういったミクロな、そしてあらゆる水準で評価=階層序列化された、あるいは評価可能なデータを共有できるようになった。この状況にはメリットもあるが、ある種の強固な幻想として評価=階層序列化されたデータを共有することにより上述した社会性の獲得が困難となる状況が生まれている。
この社会性の獲得の困難さというテーマは、「我々の笑いの統御」というもう一つのテーマと密接に結びついている。ここでは、我々の社会において笑いを統御する役割を担っているテロップ(Television opaque projector)という装置を取り上げてみたい。すなわち、テレビ画面の下の方で今や多様に乱舞するようにさえなった、出演者の発話の模写という形を取った文字画像のことである。テロップは、今やあらゆるジャンルの番組において、取り分けありとあらゆる「バラエティー番組」においてありふれたものとなっている。テロップは、その編集・プロデュース機能によって我々の笑いを先行的に規定し、さらにはその笑いを「お笑い」として取り込んでいく機能を持っている。以前は、出演者の発話の模写であったが、現在ではむしろ「面白く要約・編集したもの(発話に対する「つっこみ」等)」が主流になっている。我々はそうした「お笑い文字画像」をいつも見せられている。テロップとは、我々自身の統御装置なのである。
日本という社会は、笑いというレベルで細密に統御されているが、それは言語レベルでの統御である。笑うという身振りに関わる情動を統御されているというより、むしろそれ以前に「笑うべき発話」が文字画像として提示=指示される。この言語を、フーコーの『知の考古学』を参照して「言表」と呼ぶことにしたい。この言表は、その都度の場面で我々に提示されるが、にもかかわらず、予めすでにどこかに書かれている何かとして機能する。その意味で言表は、指示機能を持った、我々の日々の<現実>を構成する何かである。この何かの<現実>構成機能こそが、言表としてのデータベースの機能なのである。笑いにおいても、その都度の瞬間芸にとどまらず、あらかじめ用意された言語レベルでの統御があり、それがテロップという仕組みに潜在している。偏在する<我々自身の無意識>は、このデータベース・テロップの装置によって構築されるのだ。
次に、社会性の獲得と「汎優生主義」の関係を、個々人のネットワークの構築可能性という視点で論じてみたい。ここで問題となるのは、ネットワーク化していく個々人の関係が匿名化している場合、上述のデータベース機能が不可避的に作動するということである。「リナックス(Linux)」開発共同体のような創造的な事例もあるが、(注7) 今後はフリーでオープンな可能性と我々が純粋な客体になる可能性の両者がどちらかに決定不可能な形で続いていくことになる。
例えば、ひきこもっていた人を職業に就かせなくても、他者関係を結べる場までいけばいいという立場もあり、無論ここではそれを批判していない。目標としては、他者関係を結べるということに尽きるのだが、ここでは「コミュニティー・アンクル・プロジェクト」の事例を参照する。(注8) 北海道のどの町にこういったことをやっている人がいて、さまざまな職人仕事でもいいのだが、こういう人が欲しいというニーズがある。東京でこれまでひきこもっていたが、ようやく、これから仕事しようかという人と個人面接して、その人と地域のそれぞれのニーズが合致して、それをコーディネートすることになる。そのコーディネートは直接的な時空間を隔てて行っている。東京から、北海道の上川町にいって、今まで昼夜逆転していたのが、朝5時からのほうが、よっぽど気持ちいいとか、こっちの方が生活のリズムがあっているというふうになる。それを可能にするために、まさに、インターネットなどによる情報のコーディネートが必要になる。そういった自発的なデータベース機能をここで否定しているわけではない。ここで我々がデータベースといっているのは、外部からはアクセスできない、膨大な、フォーマルタイプを指している。そういったデータが階層序列化されたノウハウとして存在する。
以上のように、顔と顔を向き合わせた他者関係が社会性獲得への一歩となることは否定できない。だがそれでも、データベースは「無いないよりはあった方がいい」ということは、一般論としては否定できないであろう。例えば、訪問看護派遣事業に参入し、質の高いサービスを提供するセコムは、良質の人材を抱えているばかりでなく、彼らを動かす正確な情報をデータベースとして持っている。緻密なデータベースは、個々のクライエントのニーズに対応した的確なサービスを24時間体制で提供するためには必須である。このデータベースの有効性は会社の利潤に直結するためクローズドな状態におかれ、外部の人間が自由にアクセスすることはできない。本論では、このような組織・事業体が持つ、利潤につながる情報の総体を仮想的な全体としてとらえデータベースと呼ぶ。我々皆が、どこかにそのようなランク付けられた情報がある筈だと思っている、その幻想としての効果が存在する。それは、この私が知り得なくても、すべての問いにはどこかにその答、データがある筈だと思う<我々自身の無意識>である。
我々がそう思えるようになったのは、インターネットによって巨大で進化した検索型データベースに普通の庶民(それぞれのデータベースの外部に位置する者)がアクセスできるようになったからである。検索さえできればほとんどすべてのことは分かるという偏在的な意識が生まれた。我々の日常の一挙手一投足が、想像的なレベルでなんらかのデータとして先取りされている。幼い子どもたちにとっても、好奇心の対象が情報だというのは無意識的に決定されている。テレビや本になければ、あるいはそれ以前にインターネットで検索すればいい、とすぐにパソコンに向かうことになる。このような習慣動作のうちに、自分が知りたいことも知りたくないことも何でもデータベース化されているという幻想の、無意識の効果が表れている。ところが、ここでのポイントは、極度に微細なレベルで階層化されているデータには、関係者以外誰も近付けないということである。半永久的に利潤を出し続けるために情報は無際限に階層序列化され、利潤創出の可能性という尺度に沿ってデータは構築され続ける。
 他方、庶民はそのような(オラクル社の「Oracle10g」以降のデータベースソフトが実現する「エンタープライズ・グリッド環境」のような)データベース・ネットワークには入り込めないが、リナックスほど大規模のものではなくても、それぞれの場で自発的なデータベース・ネットワークを構築することはできる。この場合、いつでもそのネットワークに繋がれる、言い換えれば自分自身もそのネットワークの相互的な変容過程に参与できるという他者への信頼が必要となる。したがって、そういったネットワークのインタラクティヴでコミュニカティヴな面を守り続けることが今後の課題となる。周知のように、データベースの編集機能は進化していて、データの蓄積からこちらのミクロな嗜好性までも打ち出してくる。それは<我々自身の無意識>として偏在的なものとなる。
電話やファックス、電子メールやウェブ上の情報が実はすべて(ある種のキーワードによる選別を経て)読み取られているとか、「合衆国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの諜報機関によって運営されている自動的全世界通信傍受・中継システム」である「エシュロン(Echelon)」(注9) に関するイメージまたは「お話」がある。我々はそのようなものがあっても別におかしくないと思っているし、そのことで驚くことはない。昔のSF小説に描かれていたことがすでに我々の日々の現実であったとしてもそんなものだと思えてしまう。そこに変わらない陳腐さの回帰を見るということは新しい事態かもしれない。どんな反応をするにせよ、結局は個人の問題であるとされよう。だが、この「個人の問題」ということの内実が問われる必要がある。我々は、全ては個人の問題であるというメッセージに対して、何らかの応答を迫られている。

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